歴史

川崎における、公害反対住民運動の歴史 (概要)

A. 戦前・戦後の運動

1912(明治45)年7月川崎町議会全員協議会で、「工場誘致を川崎の町是」とすることを決議。
1913(大正2)年4月日本鋼管(現・JFE)が田島村渡田に工場を新設。鈴木商店(現・味の素)が川崎町に工場を新設。
1915(大正4)年この年、鈴木商店の排出する塩素ガスが付近の農作物に被害を与え、補償問題が起こる。
1917(大正6)年6月浅野セメント(現・ディシィ)が深川から田島村に工場を移転、川崎町・大師河原村の住民が粉塵が果樹の生育に影響を与えると、県知事に嘆願書を提出。
1923(大正12)年7月大師漁業組合の漁民約三百人が、海苔被害の原因は工場排水にあると鈴木商店に押しかける。
1932(昭和7)年2月川崎・大森などの漁民約二百人が鈴木商店に汚水排除施設を要求、多摩川を船でデモ。
1937(昭和12)年7月川崎市民、工場群が排出する大量のばい煙の防止対策を市や県などに陳情。署名1万人余。
1950(昭和25)年川崎市の工業復興に伴い大気汚染の市民の苦情が著しくなる。
1951(昭和26)年この年「横浜ぜんそく」が発生。また昭和35年にかけて、大師地区で大気汚染による農作物被害が多発。
1953(昭和28)年大師地区観音町の住民が、日本鋼管・昭和電工などの有害ガス、ばい煙防止を市議会に請願。
1955(昭和30)年9月大師地区住民が市議会に対し、企業による有害ガスやばい煙が人体や農作物に被害を与えるとして、請願を行う。
1955(昭和30)年12月「川崎市煤煙対策協議会」が発足し、ばい煤煙規制法制定運動を起こす。
1956(昭和31)年7月降下ばいじん量測定のため、市内16カ所にデボジットゲ-ジを設置。
1957(昭和32)年5月二酸化鉛法による硫黄酸化物濃度の測定を、市内15カ所で開始。
1959(昭和34)年6月川崎市煤煙対策協議会が、ばい煙防止市民集会を開催。
1960(昭和35)年7月川労協が公害防止条例制定運動を起こす。署名1万2千人。
1960(昭和35)年12月日石化学を中心とする諸工場により、夜光町・千鳥町に石油化学コンビナ-トが形成される。川崎市公害防止条例が公布・施行。
1962(昭和37)年3月東燃石油化学が浮島町に製油所及びナフサ分解工場完成させ、石油コンビナ-トが形成される。
1964(昭和39)年3月二酸化硫黄濃度自動測定装置を川崎保健所に設置。翌年3月大師・中原に設置。

B. 現代の運動

1966(昭和41)年5月川崎医療生協に公害対策委員会が結成され、以降、工場見学や学習会・街頭宣伝、アルカリろ紙法による二酸化硫黄の調査(68/6~)や健康被害調査、市議会請願等が行われる。1967(昭和42)年11月工場群に隣接した大島3丁目の、七戸弓子ちゃんが「小児ぜん息様症状による窒息死」で死亡する。翌12月、対策委員会は大工場に脱硫・集塵装設置させることや環境基準の厳格化、公害病認定等6項目の市議会請願を行う。
1969(昭和44)年5月川崎から公害をなくす会(以下、なくす会)が結成される。
1969(昭和44)年12月大気汚染による健康被害の救済措置が制定される。翌年1月から川崎区の大師・田島地区で救済が開始され、同年2月からは国の救済に移行。71年6月中央地区、74年11月幸区追加指定。
1970(昭和45)年5月川崎公害病友の会(現・川崎公害病患者と家族の会)が結成される。
1970(昭和45)年8月幸から多摩にかけて、初の光化学スモッグが発生し多くの被害者が出る。これを機に二酸化窒素測定のための「天谷式簡易測定器具」が開発され、その後なくす会の中心活動となって首都圏・全国へと広がる。1977年の首都圏規模の測定運動では約3万5千カ所に及んだ。
1970(昭和45)年8月川崎市と38工場が大気汚染防止協定を締結。71年1月さらに8工場追加。
1970(昭和45)年11月四谷上町に住む27才の主婦北條夏子さんが、気管支ぜん息で死亡する。
1970(昭和45)年12月扇島問題連絡協議会と日本鋼管が、京浜製鉄所の主要部分を扇島埋立地に移転することにつき公害防止協定を締結。
1971(昭和46)年2月観音町の高橋杉蔵さんが自宅屋上から飛び降り自殺する。市内の認定患者の自殺者は、その後も発生しこれまでに約40人を数える。
1971(昭和46)年4月簡易測定器具による活動の中で、市の溶液伝導率法による測定値につき疑惑が発生し、これが革新市政誕生に大きく貢献。市庁舎前に、大気汚染濃度電光表示盤が設置される。
1971(昭和46)年10月なくす会と友の会が、「川崎から公害をなくし生命と暮らしを守る市民大集会」が東大島小学校で開催、伊藤三郎川崎市長に38項目の要求書を提出する。約400人参加。
1971(昭和46)年10月衛生局公害部が昇格して公害局となる。
1971(昭和46)年11月1カ月に7人もの公害認定患者が死亡する事態が起こり、「市民の生命を奪った公害発生源企業への抗議集会」が桜本中学校で開催され、日本鋼管と東京電力へ抗議団を送り交渉した。約450人参加。
1972(昭和47)年3月川崎市公害防止条例公布 (同年9月施行)。
1972(昭和47)年4月川崎市公害監視センタ-が完成。川崎市小児ぜん息患者医療費支給条例施行(市内全域、当初12才以下・後15才、さらに20歳未満に拡大)。
1972(昭和47)年8月川崎の環境保全市民会議が、市議会に「みどりの条例」制定の直接請求をお
こなう。有権者の2倍強にあたる12万5千名の署名が集まる。 (73年10月、川崎市における自然環境の保全及び回復育成に関する条例として実る)
1972(昭和47)年8月なくす会などの住民・労働者が東京電力川崎発電所と約8時間の交渉をおこ
なう。会社側は公害の発生をみとめる確認書を発行。
1972(昭和47)年9月東京電力川崎発電所が、なくす会などとの交渉で「立ち入り調査」などを認める確認書を発行。
1974(昭和49)年11月公害被害の「過去分補償」に関し、市長仲介により市内43企業となくす会・友の会の間で確認書に調印。
1976(昭和51)年4月川崎市環境影響評価条例公布 (77年4月施行)
1976(昭和51)年11月日本鋼管扇島新工場(粗鋼生産600万t)の1号高炉が稼働、2号高炉は79年7月に稼働。この間、なくす会は市と粘り強く交渉し、焼結炉に脱硝装置の設置・硫黄酸化物と窒素酸化物の協定値見直し等に奮闘。
1978(昭和53)年3月川崎横浜公害保健センタ-が業務を開始。
1978(昭和53)年10月二酸化窒素の環境基準の大幅緩和に反対し、市民労働者など約250人がデモ行進。運動の結果、旧環境基準値の「日平均値0.02ppm」は市条例の環境目標値として残る。
1979(昭和54)年8月「公害と教育」研究全国集会が川崎の地で開催。
1982(昭和57)年3月公害病患者ら119人が公害差し止めと損害賠償を求めて訴訟提起。被告は国と国鉄・首都高・民間企業12社。その後、第2次(83年9月原告114人)、第3次(85年3月107人) 、第4次(88年12月100人)を追加。

1970年から1989年の主な大型開発計画に係る取組
(環境影響評価受理年月、なくす会が公聴会開催を求め公述した案件)

  • 1978(昭和53)年6月 東電発電用燃料転換施設(LNG基地)計画
  • 1981(昭和56)年1月 東電東扇島火力発電所計画
  • 1985(昭和60)年10月  高速湾岸線建設計画
  • 1986(昭和61)年3月 東京湾横断道路計画
  • 1989(平成1)年1月 川崎縦貫道路計画
1991(平成3)年2月川崎市ぜん息等四疾病患者医療費助成要綱(川崎区幸区)を施行
1991(平成3)年12月川崎市環境基本条例公布 (92年7月施行)。
1994(平成6)年1月川崎公害訴訟1次訴訟の一審判決で、企業12社に4億6300万円の損害賠償命令。
1994(平成6)年2月環境基本計画を策定・告示。
1996(平成8)年12月川崎公害訴訟1~4次訴訟で原告と14企業・団体が和解。解決金約31億円。
1997(平成9)年4月なくす会が浮遊粒子状物質(SPM)の実態調査を開始する。
1998(平成10)年8月川崎公害訴訟2~4次訴訟の一審判決で、国と公団に約1億4900万円の損害賠償命令。原告と被告双方が控訴。
1999(平成11)年5月川崎公害訴訟1~4次訴訟控訴審で原告と国及び首都高速道路公団が和解。
成人ぜん息等四疾病患者医療費助成要綱対象者を拡大(公害指定地域解除後の患者も救済)。
1999(平成11)年12月川崎市環境影響評価に関する条例、川崎市公害防止等生活環境の保全に関する条例、川崎市緑の保全及び緑化の推進に関する条例等を制定・公布。翌年12月施行。
2001年(平成13)~2007年常時監視測定局において、二酸化窒素の測定法が湿式から乾式(化学発光法)に順次変更され、見かけ上数値が大幅に低下することになった。
2004(平成16)年3月川崎市地球温暖化対策地域推進計画を策定。
2007(平成19)年1月川崎市成人ぜん息患者医療費助成条例(全市域)を施行。
2007(平成19)年2月東電東扇島火力発電所で、出力や温排水のデ-タが長年改ざん・隠ぺいされていた事実が判明する。
2008(平成20)年4月市環境局の公害部の名称が環境対策部に変更される。
2009(平成21)年4月首都高が設置した横羽線大師測定局が稼働。川崎公害訴訟による運動の成果。
2009(平成21)年5月なくす会創設40周年、祝賀集会や記念報告書などを発行。
2009(平成21)年9月なくす会が川崎市議会に「大手工場等に対し温室効果ガス(二酸化炭素)の大幅削減をもとめる陳情」を行う。
2009(平成21)年12月川崎市地球温暖化対策の推進に関する条例公布 (翌年4月施行)。
2010(平成22)年10月川崎市地球温暖化対策推進基本計画を策定。

1990年から1999年の主な大型開発計画に係る取組 
(環境影響評価受理年月、なくす会が公聴会開催を求めで公述した案件)

  • 1995(平成7)年2月   東燃川崎工場重質油脱硫分解装置建設計画
  • 1996(平成8)年7月   東電川崎火力1・2号系列建設計画
  • 1997(平成9)年1月  かながわ廃棄物中間処理施設建設計画
  • 1997(平成9年9月   川崎エネルギ-センタ-建設計画
  • 1999(平成11)年3月  東亜石油エネルギ-供給施設建設計画
  • 1999(平成11)年12月 東電変圧器等のリサイクル及び研究開発事業
2011(平成23)年9月なくす会による「川崎公害展」と四日市公害の映画「青空どろぼう」の上映会が、麻生区・川崎市ア-トセンタ-で開催される。
2012(平成24)年3月東京電力第2原子力発電所の大事故にともなう放射能汚染に対し、なくす会が市内各所で実態調査を開始。2016年まで。
2013(平成25)年11月微小粒子状物質(PM2.5)による健康被害が問題となるなか、なくす会が市内各所で実態調査を開始。
2014(平成26)年12月なくす会は、地球温暖化を促進させる二酸化炭素も公害物質であるとの観点から、川崎市に「工場・事業所に係る二酸化炭素排出量の抜本的削減対策に関する提案」を提出。
2014(平成26)年6月川崎市議会本会議で多摩区選出三宅隆介市議が、健康福祉局坂元昇技監の「大気 汚染が大幅に改善しているのに管支ぜん息の罹患率は上昇している」旨の論文や成人ぜん息医療費制度見直しについて質問。その後も一般質問で、公害被害団体や革新市政攻撃を繰り返す。

2000年以降の主な大型開発計画に係る取組 
(環境影響評価受理年月、なくす会が公聴会開催を求め公述した案件)

  • 2002(平成14)年1月  扇島パワ-ステ-ション建設計画
  • 2002(平成14)年4月 天然ガス発電所建設計画
  • 2005(平成17)年7月  池上新町商業施設及び物流センタ-建設計画
  • 2006(平成18)年2月  東日本旅客鉄道川崎発電所リプレ-ス建設計画
  • 2009(平成21)年8月  東電川崎火力2号系列2軸3軸設備増設計画
  • 2015(平成27)年3月 JFE扇島火力発電所更新計画
2017(平成29)年この頃から、過去の公害を見つめ直そうと市民グル-プや市職員OBによる映画会上映・出版物作成等の活動が始まる。
2019(令和2)年5月なくす会創設50周年、祝賀集会や記念プレ-ト設置・記念切手作成・旧日立鉱山の視察等が行われる。
2020(令和2)年2月川崎市が、2050年のCO2排出実質ゼロを宣言。
2020(令和2)年3月JFEスチ-ル(旧・日本鋼管)が、23年度をめどに京浜地区に残る最後の高炉一基を休止すると発表。
2021(令和3)年10月なくす会が、二酸化炭素の簡易測定を開始。
2021(令和3)年4月市環境局環境対策部に、地域環境共創課・環境対策推進課等が設けられる。
2022(令和4)年3月川崎市が、市民意識の改善等を指標とする「川崎市大気・水環境計画」を策定。
2022(令和4)年4月国交省横浜道路事務所が設置した、南幸町自動車排ガス測定局(国道1号尻手交差点)が稼働。川崎公害訴訟による運動の成果。
2023(令和5)年6月成人ぜん息患者医療費助成制度及び小児ぜん息患者医療費支給制度を廃止する条例案が、市議会本会議で多数決により可決される。
(文責・川崎から公害をなくす会 神戸)

主な参考資料

  • 川崎市発行「川崎市の環境~公害編」
  • 川崎から公害をなくす会 40周年・50周年記念報告集
  • その他

C. 川崎の公害に関する主な文献等 ~1960年代以降

 (整理: 2022/12  川崎から公害をなくす会 神戸)

書籍
  1. 橋本 卓共著 『大気汚染と住民運動』1972年「大気汚染と健康」所収 新日本出版社発行
  2. 神奈川公害研究会編 「公害をどう学習するか」 1973年 鳩の森書房発行
  3. 二日市壮編著 「京浜工業地帯~かくされた公害企業の実態を衝く」1977年 泰流物社発行
  4. 芹沢清人 『川崎からのリポ-ト』1971年 公害取材記者グル-プ共著「汚染犯罪を追求する」所収 医事薬業新報社発行
  5. 芹沢清人著 「故郷の名は川崎」1991年 高文研発行
  6. 芹沢清人著 「検証・川崎公害~産業優先の都市は終った」1994年 多摩川新聞社発行
  7. 芹沢清人・町井弘明共著 「人間と市への復権~-公害都市川崎からのレポ-ト」 1975年 合同出版発行
  8. 宮崎一郎 『川崎から公害をなくす住民運動』「京浜公害地帯」所収 1971年 新評論発行
  9. 宮崎一郎著 「環境・公害教育に生きる~生徒・父母・市民とともに歩み続けて」 1996年 高文研発行
  10.  天谷和夫 「みんなでためす大気の汚れ」 1989年 合同出版発行
  11. 篠原義人著 「自動車排ガス汚染とのたたかい」 2002年 新日本出版社発行
  12. 篠原義人編著 「よみがえれ青い空~川崎公害裁判からまちづくりへ」 2007年 花伝社発行
冊子

川崎から公害をなくす会発行

  1. 川崎から「公害」をなくすために 1970年6月
  2. 許すな! 新増設―東電・日本鋼管新工場問題  1975年7月
  3. 東京電力新火力発電所とその一部であるLNGタンクヤード建設に関するいくつかの問題点 1976年3月
  4. 環境破壊・公害をなくそう 1978年10月
  5. 川崎から公害をなくす会創設40年史 2009年5月
  6. 川崎から公害をなくす会創設50年史 2019年5月

公害訴訟関係

  1. 胸いっぱいの青い空を 1997年2月
  2. きれいな空気と生きる権利を求めて 1999年7月
自主出版
  1. 神戸治夫 「ふりかえりみれば山川を~公害患者と共に23年、被害者救済から酸性雨まで」 1991年9月
  2. 市立大師中学校/煙河新聞編 「この怒りをどこに~ある公害地区の記録」 1971年2月
  3. 井浦智恵子 「白い雲~公害病患者のうた」 1981年12月
写真集
  1. 関次男・小倉隆人 「複合大気汚染に覆われる街川崎」/「川崎公害訴訟」 写真絵画集成『日本の公害5』所収 1996年 (株)日本図書センタ-